積極的安楽死は認められるべきだろうか?

はじめに

この記事はTokyo City University Advent Calendar 2020 14日目の記事です。前日は、やさい🍅さんの「四工大生にこそ見て欲しい社会派アニメ映画」でした。

 

初めまして、花形といいます。これまでの皆さんとは落差が激しいですが、よろしくお願いします突発的な思想で書いた記事となりますが、積極的安楽死を認めるべきか否か四つの観点から自分の判断を見つけたいと思います。

1「意思確認の難しさ、終末判定の難しさ」

安楽死を求める人間には、もう生きる見込みがない、症例が少なく助ける方法がない、というような人間が多くいる。本書でも書かれているが、安楽死を望んだ人間が死期が迫るにつれ、死に恐怖し、やはり生きたいと思った場合や、自分はどんなに苦しくても、何があっても生きたいと言っていた人間が、苦しさに耐えられず、安楽死を望むようになったとしたとき、どの意思を優先すればいいのか。また、日本では死期が迫ってない場合、安楽死は認められないことが、安楽死が容認される上で不可欠だったが、死期とはいつから、終末期はいつからなのか。まずは「「安楽死に対する意思が変わってしまった場合どちらの意思を優先すべきか」」、について考えを述べる。前提として、死に対して、何も感じない人間はいないと私は考えている。死ぬのが怖いと言う人間もいるし、早く死にたいと言う人間もいる。加えて、死ぬのが怖いと言っていた人物が突然、死にたい、と言ったりする。人間の意思なんて、周りの意見で変わってしまうこともある。だからこそ私は、安楽死に対する意思が変わったのだとしたら、新しい方を優先すべきだと思う。なぜなら、人間の意思はすぐに変わるが、その瞬間に持った意思は、その瞬間には絶対のもので、覆ることのないものだからだ。変わるからこそ、その場の意思が大事なのだと私は思う。そして「死期とはいつから、終末期はいつからなのか」、これに関して私に述べられることは少ない。死期、終末期でなくとも同じような苦しみを持つ人はたくさんいる。自分の人生を自分の意思で閉じる。死期、終末期の人と変わらない苦しさを持つなら安楽死を認めるべきなのだ。私は、なんとなく積極的安楽死を認めるなら、自殺を法として認めるのでもいいのではないか、と言う意見を持っていた。その理由の大部分は、四つの問題の中でもこの、「「意思確認の難しさ、終末判定の難しさ」」、にある。医者は人を救うのが仕事だ。しかし、安楽死というのは救うはずの患者を患者の意思があれども、医者が関わることになる。間接的とはいえ医者は救うはずの患者を殺す手伝いをしているのだ。安楽死という名目の元、患者は自分の意思で死ぬ権利を手に入れ、医者は、救うはずだった患者の命を殺してしまった経験と責任を、それこそ死ぬまで背負うことになるのだ。それなら自分の意思を自分で確認し、終末判定の必要ない自殺こそ、他人が分からないほどの苦しみを感じているなら認められてもいいのではないかと思っていた。結論から言うと四つの倫理的問題のうち、意思確認、終末判定を医師が行う限り、積極的安楽死は認められるべきでないと私は思う。

2「適応範囲拡大のおそれ」3「「死ぬ権利」は果たしてあるのか」

適応範囲の拡大、死ぬ権利、この二つの倫理的問題は関連する部分が多いと思うのでまとめて検討する。適応範囲拡大も、死ぬ権利についても、結局は死に対する思考の変化が危険だということに対し、倫理的問題を持っているように思える。これは個人の「死」の問題でも、人格の「死」の問題でもなく社会としての死に対する認識の問題なのだ。人の意思は変化する、これは一つ目の問題点を検討した際にも述べたことだが、もう少し大きな括りで考えると社会としての考えというのも事実として変わっていっているのだ。例えば、体罰というのは今でこそ重大な問題としてどうにかしなければいけない、と度々ニュースやバラエティ番組で話題になっているが、私の父や母が子供の頃は今体罰といわれているものの一部が当たり前だったし、それがいいこととは思わないがそういうものとして、社会に受け入れられていた。体罰はよくない、だから規制した。これはいい傾向であったと私は思うが、安楽死の場合、死に対して肯定的になってしまう可能性があることを考えると、積極的安楽死はすぐに認めていいと言えるものでない。私が興味を持った小説に「バビロン」という小説がある。「バビロン」という小説は、自殺も善、善いことではないかと投げかけてくる絶対的な悪に立ち向かうストーリーだと私は考えている。その小説の中でも生と死、善と悪の描写がたくさん出てきて、私は善と悪についてよく考えた。結果として死は悪でない。と私は思う。だが死は善でもないのだ。安楽死が容易に行われるようになった時、死が善になる時、それは人が動物として終わってしまうのではないか。私はそう思ってしまうのだ。もし積極的安楽死が日本に認められるようになるなら、安楽死の権利を与えずに社会として積極的安楽死を認める方法を考え、安楽死が、常に危険が隣り合わせている物だと理解して認めるべきではないか、と思う。しかし、これは現状として難しいだろう。

4「尊厳は果たして失われるのか」

これまで四つの安楽死の倫理的問題のうち三つの問題に触れてきた。最後の四つめの倫理的問題は、今までの問題の中で一番重要で一番重要だと私は考える。「「日常の中の生命倫理」」という本のなかでも尊厳死とは「「尊厳を保ったまま、死を迎えること」」であると述べられている。尊厳とは、「「とうとくおごそかで、おかしがたいこと。」」であり、尊厳死は「「一個の人格としての尊厳を保って死を迎える、あるいは迎えさせること。」」と広辞苑にも記されている。尊厳死は「「近代の延命治療が死に向かっている人の人間性を無視しがち、ということへの反省として生まれるようになった。」」とされている。しかし尊厳の意味を考えると、安楽死の上で捉えられるべき尊厳死とは元が、死に向かっている人の人間性というのなら、心が死に向かっている人も含まれるのではないか、と私は思う。「「日常のなかの生命倫理」」の中でも尊厳をめぐって二つの立場が対立しているとされている。

「一つは、尊厳とはある条件のもとで与えられる資格や能力のことだと考える立場であり、この考えに立脚すれば、一定の条件が欠如すれば尊厳は失われる。その資格や能力は、理性、人間らしさ、応答能力などによって根拠づけられるのが一般的だ。消極的安楽死の導入に賛成する人たちは、先ほど挙げたスパゲティ症候群のような状態では、理性的な判断はできないし、人間らしい生活も送れず、呼びかけても応答できない状態だから、もはや尊厳が保たれているとは言い難い、と考えるわけだ。この立場は、生命の神聖さ(Sanctity of Life)よりも、生活の質(Quality of Life)を重視する立場だとも言える。

対して、尊厳とは人間であることそのものに根を持つ概念であり、それはどんな状況やどんな状態になろうと失われない、と考えることもできる。障碍者の団体からは安楽死反対の声がよく聴かれ、例えば脳性麻揮者らの団体「全国青い芝の会」も、尊厳死安楽死)法案は命の選別を前提にすると考えて、反対している。それは、一定の条件を充たしている限りで尊厳は保たれるとしてしまうと、当然ながら、その条件が欠如している人間には尊厳がないことになり、その延長線上に障得者が位置づけられる可能性が否定できないだろう。」

私は二つの意見のうち2つめの方の意見の方に賛成である。尊厳は失われることのない絶対のものだ、そうで無ければそれこそ人間は生きているといえないのではないかと私は考える。では人間である限り尊厳を持つとすると「人間であること」はどこからであるか、ということが、問題に挙げられている。私はそれを、選択する自由を持っていることだと思う。人間は社会というある程度平和な世界の中で、知識を身につけ、研鑽を積むことも、したいことのために他の全てを投げ出すこともできる。例えば、中国に昔存在した、「宦官」と呼ばれる人たちは、去勢をして子を作ることができなくなっている。元は刑罰だったともされているが、皇帝の頭脳として後宮で働くために自ら宦官になったものもいた。選ぶ自由というのは人間ならすべての人に与えられていると私は思う。つまり尊厳はやはり失われるものではないのだと私は考える。そして尊厳が失われないということはつまり、尊厳がある脳死状態の人の死は認められるべきということだ。もしも尊厳という一点のみで人の死がはかれるのだとしたら積極的安楽死も認められるべきだということだ。ただし、それは尊厳という一点のみで考えられたことであり、

積極的安楽死は認めるべきか否か

ここまで四つの倫理的問題に触れながら安楽死について検討してきた。これまでの検討から見ても明らかだが、私は積極的安楽死が認めるべきでないと考える。この四つ以外にも倫理的問題はたくさんあり、考慮するものもたくさんあるだろう。しかし、尊厳が全ての人間にあると考えた時、積極的安楽死は、やはり医師の力が必要で、医師にどうであれ、殺しの手伝いをさせている。もし積極的安楽死を認めたとして、それが精神疾患の人々にも認められた時、助けられるかもしれない人を安楽死させる、殺すというのは、医師の尊厳を大きく損なうのではないかと私は考える。一人の尊厳のために医師の尊厳が損なわれる必要がなく、そして積極的安楽死を選ばなくても、カウンセリングで精神的苦痛を、薬の投与で肉体的苦痛を、という風に、苦痛を取り除く方法はあるのだ。だから私は積極的安楽死を認めるべきでないという結論を出した。

参考

日常のなかの生命倫理 山本史華 2018年 梓出版社

広辞苑 第六版 2011年 岩波書店

野﨑まど『バビロン』2015年 講談社

オランダで、安楽死の容認はなぜ可能なのか 時の法令1650号, 2001年9月30日発行https://cellbank.nibiohn.go.jp/legacy/information/ethics/refhoshino/hoshino0069.htm

 

さいごに

今回このような記事を書いたのは、本記事でも参考にさせていただいた、『バビロン』をはじめとした、野崎まどさんの、本について語りたいと思い記事を書いていたのに、気づいたらデータが消えていて、じゃあ安楽死についてかくかーって思ったからです。←なんで?機会があれば、そちらも記事にさせていただきます。時間があれば、野崎まどさんの作品に手を出してみてください。アニメ化やアニメの脚本を手掛けたりさえているので、見やすいと思います。(アニメに関しては結構評価が分かれているので気を付けて)みんなで生と死について考えて健康になりましょー

 明日は、Tokyo City University Advent Calendar 2020 15日目 らぴーと君の「FreeDOSWindows 98をインストールしたいって話」です。